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歴史

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播隆上人も歩いた飛騨新道

江戸時代末期
当時、松本平と飛騨を結ぶ道は、安房峠を越える鎌倉街道と、野麦峠越えの野麦街道がありました。が、鎌倉街道は難所が多く、寛政二年・西暦1,790年)の幕命で閉鎖され、以後は遠回りの野麦街道だけが使われていました。 そこで、岩岡村(現・松本市梓川)の庄屋、伴次郎が「距離が短い新道があれば、飯米に困っている飛騨(岐阜県)の村々は松本平の安い米が手に入り、越中の海産物を松本平に運ぶにも糸魚川回りより輸送費が安くすむ」と、松本平と飛騨を結ぶ最短ルートを計画。小倉村の又重郎らの協力を得て、飛騨まで出向いて人々を説得しました。

着工は文政三年・西暦1,820年)。人里離れた山中とあって、工事は難航。二人は私財を投げうち、松本藩からの援助も受け、十五年後の天保六年・西暦1,835年)にようやく牛馬が通れる道を開通させました。この間、文政十一年・西暦1,828年)には播隆上人が、又重郎の案内で工事中の飛騨新道を通って槍ヶ岳開山を成し遂げました。

大工事の末にやっと開通した新道でしたが、冬季は雪で通行できず、大雨による崩壊も相次ぎました。このため利用者は少なく、開通後二十数年であえなく廃道になってしまいました。
そして現在-。樹林帯の中を延々と歩く鍋冠山から大滝山への道は、登山者もまばらとなりました。しかし、市の職員が毎年手入れに通っているため、道は大変良く整備されています。
一時は定期バスまで運行した三郷スカイラインも、今ではすっかり忘れ去られたような存在となっています。

蝶ヶ岳ヒュッテの建設

祖父の後を継いだ父・中村義親は1958年、初心者に人気の登山コースである常念山脈の蝶ヶ岳稜線上に、蝶ヶ岳ヒュッテを建設しました。
建設に着手したのはその2年前からでしたが、既に山小屋案内書に登録されていたため、建設中にもかかわらず、ヒュッテを訪ねてくる登山者もいたそうです。
当時、テントで寝泊まりしていた義親は、少数ならば「ここですよ」と、登山者をテントに招き入れたという。

中村家の山小屋事業は大滝山荘から

1,922年(昭和7年)頃、祖父・中村喜代三郎が、三郷(現在は安曇野市・三郷)の住民より大滝山荘を譲り受けました。
中房温泉・百瀬家の分家から養子として、代々庄屋であった中村家に入った祖父は、百瀬家所有の殺生小屋と西岳小屋(現在のヒュッテ西岳)の経営にもたずさわり、繁盛をきわめました。
その後祖父は、両山小屋を百瀬家に返し、大滝山荘を営み始めました。